story telling project

  演劇の英雄

ジャスティン・フェルダー
320K, 2005年秋学期

 小学校の頃からうらやましそうに兄の戯曲を何回も見に行きました。しかし色々な演劇を見れば見る程私は段々興味を持つ様になりました。中学校に入る前の夏休みには、私自身やっと大勢の若者の必要な戯曲のオーディションに行ってみました。それで、簡単な歌を歌ったし、ある登場人物として脚本から音読してみたし、結局小さな役をもらいました。その「The Music Man」というミュージカルは、私の演劇の経歴ゼロからの出発点になりました。

 それから中学校でも高校でもずっと演劇部にいて、もっともっとゆっくりとはっきりと語れる様になりました。例えば、もっとも熟練した俳優になろうという目標しか持っていませんでした。演劇時代の絶頂の高校二年生の時には先輩のキャンパスからナイスラー先生と呼ばれる監督が私のいるキャンパスに移って来ました。先輩の友達に「どんな監督でしょうか?」と聞くと、だれでも感動させられたらしいですね。兄もそんなふうに答えて、私は出会うのをすごく楽しみにしていました。

 では、私は兄の弟なんだからこの時までに「クリス君の弟さん」と監督達の六人に知られていたんです。それとも、そのわけでどうやら「まじめな演劇部員」として評判になっていたので、ナイスラー先生と初めて出会った時には、彼はもう高い期待を持っていました。私は実際気楽な怠け者だったけど、そういう期待を実現する様に一年中一生懸命セットを建てたり、早く脚本を暗記したり、衣装を作ったり、つまりいつでも演劇部でやる事をしたんですね。春学期までに、毎朝彼と一緒に教室で朝食を食べて色々な事を話す事にしている程お互いに気に入りました。

 ナイスラー先生が好きになりやすいところはいっぱいあったんですよ。どんな場合でも皆を笑わせて同時にちゃんと働かせたし、とても面白くて想像力のたくさんある俳優だったし、他の監督達と違ってずいぶん我慢強い人でした。そして、勇気のある人でしたよ。実はだれにでも「どんな監督でしょうか?」と聞くと、すぐに「かわいそうに癌になったのにまだ頑張って演劇を教えている監督だぞ」と答えるんでしょう。毎週化学療法へ行かなければならなくて毎日一時間半ぐらい通って本当にかわいそうだったんですね。

 高校三年生の秋学期が始まったばかりの時には、ナイスラ先生はまだ教えるはずだったのに、三週間病気になったのでずっと留守になったんです。そしたら、2001年の九月十日、授業が始まる前に別の監督が演劇部の全員を集めて泣かない様にしながら「夕べナイスラ先生がなくなりました」という最悪のニュースを話してくれたんです。やっぱりだれも動いたり声を出したり出来ない程びっくりしたんですね。いくらかのむせび泣き声以外一時間沈黙しか聞こえなかったんです。

 その次の日の木曜日はもちろん ワールド・トレード・センター での惨事でしたよね。でもさ、その前の日のショックのおかげで、他の生徒より影響を受けませんでした。その土曜日にあった葬式のために「Pallbearer」という「ひつぎを運んで歩く人」になりました。その経験はかなり面白かったんですよ。皆さんの目の前でひつぎを運びながら、考え事がずっと一つしかなかったんです。「絶対落とすな、絶対落とすな。。。」と何回も何回も自分に言っていたんです。墓に無事に到着出来たら安心してしまいましたね。他の「Pallbearer」の五人も同じ様に考えていたと思います。その中にいる親友は「まぁ、着いちゃったんだ。おつかれさま!」と明るく言って、それから笑うのがどんどん簡単になりました。つまり瞬間にはナイスラー先生の葬式が「死を悲しむ事」より「人生を祝う事」になってしまいましたよね。

 さて、ナイスラー先生の様に私が感動させられた人はそれまでもそれからも全然出会っていません。ですから、出来るだけまだ彼の期待を実現しようとしているところなんです。もう演劇部をやめちゃったんですが、同じ様な目標を持っています。いずれにせよもっとも上手な俳優になろうとするより、もっともやる気のあって世話が出来る人になろうとすれば、いい感じだと思うんですね。今でさえ何をやってもまだナイスラー先生の期待に添う様にしています。

last modified 2006年7月15日